耳に届いた葉擦れの音に、サンジは緩やかに眠りから浮上した。
 徐々に温かみを持ち始めた日の光に、つい眠りに誘われたらしい、と、目が覚めたことで自覚する。
 まだぽうっとした表情のまま、サンジは音を立てた人間を探して首を巡らせる。と、ある一点で動きが止まった。
 そこにいるのは、学生らしい詰襟の制服に身を包んだ、体格の良い一人の青年。手に持った鞄からはみ出した細長い筒を見て、どうや ら卒業式帰りだと分かる。
 珍しい緑の髪は、一面若草に覆われたこの場所ではまるで風景の一部のように溶け込んでいて、サンジはへェ、と軽く眉を上げた。
 青年は何かを探すようにきょろきょろしている。僅かに聞こえる雑音を拾い上げようと、サンジは目を閉じて意識を集中させた。
【……だ?……んで……、……。】
 なかなか波長が合わない。一度目を開いて青年を見れば、眉間にぐっと皺が寄っている。こんな所で怒りを覚えたわけでもないだろうし、だとすれば――
(困ってんのか。)
 そういう心境だと予測をつけて耳を澄ますと、一言だけ、はっきりと聞き取れた。
【……此処、どこだ?】
 瞬間、サンジは思わずくすっと笑ってしまった。此処から東にしばらく行けば、かなり大きな幹線道路に出ることが出来るのだ。現に、今も 微かにクラクションやらエンジン音やらが 聞こえている、というのに。
(コイツ、相当な迷子の達人だな。)
 仕方がない。本来、人前に姿を見せるのは極力避けるのだが。
 椅子にしていた木の枝からすとっと飛び降りると、サンジは青年に声を掛けた。
「オイ。」
 びくっ、と青年の方が揺れる。
「なっ……アンタ、何時から……あれ?」
 ぱくぱくと口を開閉させて目を見開いている。どうやら驚かせたらしい。その青年が瞳も淡いグリーンであると気付いて、サンジはまた片眉 を上げた。
 しばらく待ってもそれ以上の反応がないので、サンジは再び喋りだした。
「アンタ、迷子でしょ。」
 に、と口角を上げて。
「そこの道路まで案内してやるよ。」

 それが、切っ掛け。
 あの日、何故か普段と違って顔を見せた自分の行動も、陳腐な言い回しをすれば、
『運命』って奴なのかも、知れない。







ミモザの花咲く丘の上:ver.α







 今年も、丘の上のミモザは満開の花を咲かせている。一つ一つの花弁はとても小さな筈なのに、枝を一本とってみてもほわほわと丸っこい塊が溢れんばかりだ。
 ゾロはくぅっ、と背筋を伸ばして、肺腑の空気を総入れ替えするように思い切り深呼吸した。
 ほのかに甘い香りが鼻腔を擽る。先月よりは幾分か温まった風がミモザの大樹を揺らすと、ぱらぱらと黄色い雨が舞った。
「まぁた昼寝か?この陽気じゃ脳味噌蕩けるぞ。」
 不意に、背後から聞きなれた軽口が飛んできて、ゾロは業とらしくきゅっと眉を寄せて振り向いた。
「……お前ェこそ、いつも此処で寝てるばっかだろーが。」
 しかしサンジは鼻を鳴らして、
「俺はそれが仕事、っつーか生き方みてェなもんだし?本分ほっぽって年中寝こけてるヤローとは違うっちゅうの。」
 柔らかな春の空のようなふんわりとしたブルーの瞳は、からかいの言葉をも柔らかな印象に変えてしまう。
 ゾロは知らず瞳を細めて、まさに花盛りのミモザそのままの男を眺めた。
 最近になって漸く望めるようになった、麗らかな陽光の中に立つサンジは、本当に春のために生まれてきたようだ。蜂蜜色の頭髪が輝く様は、『光の申し子』と言っていい気すらしてくる。……勿論、そんな恥ずかしいことは口に出せないが。
 ゾロはフン、と小さく鼻を鳴らした。その口元にはいつもと同じに皮肉げな色を浮かべ、しかし目元にはその欠片すら見えなかった。
「ま、もう終わったし、な。」
「――え?」
 サンジは、まるで表情を取り落としたような顔になった。そんな顔をされて、なお自分の薄っぺらい仮面が剥がれないでいられるのか、今自分がどんな顔をしているのか、ゾロには全く分からなかった。
「大学、無事に卒業できたからな。もう学生じゃねぇぞ、悪ぃけど。」
 まるで子供が悪戯を咎められた時のような、何かに反抗するような口調。サンジはああ、とさっきまでの表情を取り戻して、また明るい調子で言葉を紡いだ。
「じゃあ、あんまこんなとこ来てる場合じゃねぇよなぁ。何、お前でも会社員とか、すんの?」
 何か想像すると笑えるよな。その緑頭でスーツかよ。
 なお何か言いかけたサンジを、ゾロはたった一言、呟くようにして黙らせた。
「明日……、」

「明日で、今のアパートを引き払う。引っ越すんじゃなくて、実家に帰る。で、親父の道場を継ぐ。」
 彷徨わせていた視線を真っ直ぐにサンジへと向けて、ゾロは静かに言った。
「多分、……もう、ここには来ない。」
 今度こそ、ゾロは顰め面にならずにいられなかった。顔中に力を入れていなければ、余計な感情まで零れ落ちそうだった。
「……。」
 サンジは黙ったまま、くるりと向こうを向いてしまった。その心の内を一欠けも見せない背中に、押さえ込んだ何かが胸を、喉の奥をせり上がってきて、ゾロは着ている春物のコートの襟元をきゅっと掴んだ。先刻感じた春風が今度はひやりと首筋を撫でて、ゾロは小さく身震いした。


「そうか。」

 まるで吹き上げる風に千切られたように、微かに、しかし確かに、サンジの声がゾロに届いた。それは、意外な程に落ち着いていた。
 何故だかその声は、ゾロに焦りのような思いを抱かせた。その言葉は適当じゃない、けれど、他に言いようのない、底が焦げ付くような気持ちだ。
「……ああ。」
 声が震えた気がする、怪しまれただろうか。理由など分からない、怪しまれるようなことなど、後ろ暗いことなど、何一つ無い筈なのに。
「じゃあ、さ。最後に一個だけ。」
 やっと振り返ったサンジの浮かべた表情は、ゾロには形容はおろか読み取ることも出来ないものだ。そんな表情では分からない。お前のその顔は、
……俺の、このギリギリと引き攣る胸の痛みと、同じ種類のものなのか?
 らしくもなく、ただ、答えが欲しいと。誰か教えてくれと、ゾロの心は悲鳴を上げた。
「何だよ。」
 少し上ずった自分の声に、ゾロはじりじりと染まっていく己の頬をどうすることも出来なくなった。この神に祝福されたような完成された春の日に、その光の下に、晒されるのだ。この全身を刺すように渦巻いている、以前に感じたことのない感情が、その、名前が。
「絶対、聞いてから厭がんなよ?」
 口調は相変わらずさらりと軽いのに、その顔は、酷く不似合いに真面目で。
 サンジのその薄い桜色の唇から押し出された音が、ゾロのもとへと、運ばれる。


「ねぇ、抱き締めさせてよ。」


「――っ、な、……。」
 ゾロは目を見開いた。
「お前、それ、なっ……ッ、ぇ、」
 周りの気温が下がった気がする。……違う、自分の体温が上がったのだ。もう考えなくても分かる、今の自分の顔は真っ赤に違いない。
「言っとくけど、拒否権はねぇんだぞ!」
 見ればサンジも白皙の頬を薄っすらと染め上げて、しかし……、表情は今にも泣き出しそうだ。
 それを理解した瞬間、ゾロは何故か肩の力が抜けていくのを感じた。そうして初めて、自分が緊張していたのだ、と気付く。
 どこからともなく、唐突に、堪えようもない笑いの波が迫ってきた。可笑しいんじゃない。泣きたいほどに、――嬉しいのだ。
 あァ、なんだ、そんなこと。
 気付いてしまえば、それはとてもしっくりとゾロに馴染んだ。まるで、何年も前から、心の中にあったように。
 いや、あったにはあったのだ。それに気付かないでいたのは、気付かないようにと蓋をしていたのは、他でもない自分自身で。
「…………ッく、ハハハハッ!」
 一度箍が外れると、もう止まらなくなってしまった。ちょっと困ってサンジを見やれば、どうやら馬鹿にされたと思ったらしい、ムッとした顔をしている。
 ゾロは笑いこけた顔はそのままに、グイッとサンジの右手を引き寄せた。
「おい、ゾロ、……っうわ!!」
「ホラ、腕回せ。」
 重なった胸からはとくとくとくとく、ギャロップしている拍動が響いて。ククッと喉の奥を震わせてゾロが促すと、一瞬の躊躇いの後で、二人をくっつけてしまおうかというくらいの力でサンジの腕が巻き付いてきた。
 肌を擽る金糸の合間から、濃厚な甘い匂いが立ち上がった。しかし決して気分が悪いものではないのは、それがサンジの生まれ持った香りだから、なのだろう。
 取り巻く日差しは、もうだいぶ傾きかけていて。本来黄金色のサンジの髪は、よく熟した蜜柑のような、しっかりとしたオレンジ色に染め上がっている。
 ゾロは、透明な香りの頭に顔を埋めて、うっとりと瞼を下ろした。
 聞こえるのはただ、お互いの息をする音だけだ。



 やがて、名残惜しそうにゆっくりとサンジの腕が下ろされたとき、既に頭上には彼方の煌きが瞬き始めていた。
「――なァ。」
 聞き取れるか取れないかというほどの、微かな微かな呟き。
「また、来いよ。」
 俺は、ここにいるからさ。
「ここで、また、花咲かせて待ってるから。」
 俯いて座り込んだサンジの、初めて見えたつむじを静かに見つめながら、ゾロも、囁くように返事をした。
「ああ。」



「必ず、帰ってくるよ。」


 ミモザの舞う、この、丘の上に。







End.